ボヘミアン・ラプソディ|孤独は才能を花火みたいに咲かせて散らせる
ボヘミアン・ラプソディ|孤独は才能を花火みたいに咲かせて散らせる
音楽系映画は、映画館で見る派のヤマノカホ(@kaho_yamano)です。できればDolby Atmos(音響がいいやつ)で観たい。というか、聴きたい。けれど、お金がもったいない(+200円?)。という葛藤と、いつも闘っています。貧乏は大変。
ただ、「ボヘミアン・ラプソディ」は、きっとDolby Atmosがおすすめです。ライブシーンが多く大迫力で音楽を楽しめるので、普通の2Dでも楽しかったですが、いい音響だともっと満喫できるはず。
ヤマノはただの2Dで観てしまったので、Dolby Atmosでもう一度観るか悩み中です。
そんな、最高だった「ボヘミアン・ラプソディ」。世界的ロックバンドQueenのボーカル、フレディ・マーキュリーが主人公です。実話ということなので、そこまでネタバレは配慮しないで思ったことを書いていきます。
1.孤独を取り巻く音楽
この映画のポイントは、“孤独”です。まあ、言わずもがななんですが。そして、その孤独な出来事を彩る音楽たちが、すごくいい。
単にQueenの楽曲を聴くよりも、孤独感が浮き彫りになるんです。だからこそ、歌詞の一つ一つがパワーも持っていて、元気をくれる。
孤独って自分はつらいけど、作品に昇華できたときは本当に勇気を与えてくれる作品になるんですよね。とてもエネルギーをもらえます。
だからこそ、映画は「ボヘミアン・ラプソディ」(自由奔放な者の狂想曲)がぴったりだと思います。
2.「ボヘミアン・ラプソディ」って?
この映画のタイトル、「ボヘミアン・ラプソディ」を聴いたことはありますか?というよりも、歌詞をしっかりと理解した上で聴いたことはありますか?
この曲はQueenの曲の中でも一段と孤独感が強めだと、個人的には思っています。
まず、6分間あってオペラ的に構成されているこの曲を全訳するのはキツイので、歌詞の大まかな流れを追っていきますね。(下記にあるのは、ヤマノの意訳です)
これは、現実なのか、ファンタジーなのか?
地滑りに巻き込まれたみたいに、
現実からは逃げられないんだ。
と、主人公ボヘミアンには自分の意思ではどうしようもない現実がある、とナレーションではじまります。そして、フレディ(=ボヘミアン)が「僕は気ままに生きるただの貧しい少年だから、同情なんていらない。風が吹いたって、僕には関係ないことなんだよ」と語りはじめます。
ママ、
ある男を殺したよ。
彼の頭に銃を突きつけて、引き金を引いたんだ。
今、彼は死んだよ。
と、その後は「ある男」を殺した告白がはじまります。そして、ボヘミアンは現実に向き合っていきます。そのなかで、このようなことも言うんです。
遅すぎたよ、人生が終わってしまう。
背骨から震えが止まらないよ。
身体中が痛いんだ。
バイバイ、みんな。
みんなを残して、僕はもう行かないと。
そして、真実と向き合うんだ。
ママ、
死にたくないよ。
ときどき、生まれてこなければよかったとさえ思うんだ。
死ぬ恐怖に震えながら、真実と向き合わないといけない運命を理解している感じかな、と思います。
その後、話は展開していって、神に「死にたくない」と懇願します。そして、ママに「僕を愛したことを忘れて、僕を見殺しにするの?それなら、ここを出ていかないと」と伝えます。
ボヘミアンがママに訴え続けた言葉は、届いたのか。
どうだっていいことだ。
僕にはどうだっていいことなんだよ。
どうせ、風は吹くんだから。
と、孤独な結末を迎えます。
この曲でよく言われるのは、殺された男は“女性と結婚した、異性愛者なフレディ”で、主人公ボヘミアン(型にはまらない者)は“同性愛者としてのフレディ”というもの。フレディの性的志向が暗に告白されている、と言われています。
しかも、歌詞に照らし合わせると“同性愛者のフレディ”は人生がはじまった途端(性的志向を自認した直後)に、罪を犯して裁かれようとしています。同性愛は、宗教的にはそれだけで悪。存在した瞬間から、裁かれる対象になってしまうんですよね。
好きになるだけで罪ってキツイな、と思うんです。それも、人間だけでなく神からも罪だって言われたら、どこにも居場所がなくなりますよね。救いの場所すら、受け入れてくれないんだから。(無宗教だから、想像でしかわからないけど)
ただ、曲の解釈は聴き手のモノということで、フレディはそこにどんな想いを込めたのか、語っていないんですよね。謎のまま、名曲として残っていくのでしょう。謎だから名曲なのかな?
3.拭えない孤独はどこから来るの?
映画の中のフレディは、成功を収めるにつれて自身の内面的な部分(セクシャリティ)とバランスが取れなくなっていくような印象でした。
Queenが成功するまでの間はあらゆることで満たされない部分が多くて、一つ一つその穴を塞いでいけばよかった。
空港で荷積みの仕事をするザンジバル出身のインド人で、出っ歯。ゾロアスター教徒の家庭で、厳格な父のもと育ちます。
ちょっと、特異な環境ですよね。周囲と違いを感じざるを得ない瞬間は、必ずあったと思います。映画では脚色されているはずなので、どこまでを事実を受け止めるか判断に迷うのですが、映画の中のフレディは「パキ(パキスタン野郎)」とからかわれることがあったり、歯のことを馬鹿にされたりしていました。
これって一個一個は小さくても、漠然とした不満と孤独感は溜まっていくと思うんです。だから、解消したくなる。
フレディは、そうした多くの明るくない感情による穴をQueenの成功や自身の才能と結果で埋めていったんだと思います。認められ、称賛され、数字も出れば、承認欲求は満たされていくでしょう。でも、愛されたいという気持ちは、それでは満たされないんですよね。
フレディは、上り調子のなかで女性と結婚しました。だから最初は、恋愛感情が満たされなくても他が満たされていくから大丈夫だったのだと思います。でも、本当に上り詰めて満たされない部分が浮き彫りになってしまった。
愛情がほしいという思いが満たされなくて、拭えないほど孤独が染みついてしまったんだと思います。
4.孤独な芸術家と名曲たち
そんなふうに映画のなかではフレディは孤独を深めていくんですが、1で書いたように各シーンでQueenの名曲が生きてきます。
「ボヘミアン・ラプソディ」はもちろん、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」や「伝説のチャンピオン」も、フレディが歌うからより意味が深くなるんだと思います。彼の寂しさや満たされない思いを知った上で歌詞を聴くと、本当にすごくよかったです。
もちろん、ブライアン・メイが作詞作曲している曲もいいんですがね。
5.ただ一点の疑問
これば余談ですが、映画の中でフレディはライブ・エイド(‘85)という難民救済の募金を集めるフェスの前に、エイズであると告知を受けています。ただ、事実はその2年後である1987年に告知を受けているはずなんですよね。
ストーリー的に山が必要なのはわかるのですが、ここが少し嫌でした。
フレディはエイズの告知を受けてから、彼の最後の恋人ジム・ハットンに会いに行くような描き方になっています。けれど、本当は告知はジムと付き合っている途中にあった。しかも、事実ではジムもHIVにかかっていて、その感染源はフレディである可能性がほぼなんですよね。
映画でフレディがジムにHIVを告白している描写はないですが、時系列的にはちょっと事実とおかしなことになる。暗に事実が変わってしまっているんです。
映画だから、きれいに締まるストーリーが必要なんですが、それでも無視しちゃいけないと思うんだよなー……と、思ってしまいます。